由来詳細

由緒

昭和三十二年 (一九五七) 十二月、京都伏見、稲荷大明神を新設の城ヶ鼻公園内に勧請した。
発起人は三斤会会員で、 御幸地区民及び町内有志が賛助した。
昭和守十二年 (一九三七)、 三斤会 (附記参照) の席上で、「町民の憩の場として町内に公園を設置しては如何」との問題が提起され、会員討議の結果、千足の南方、妹川星野ヘの直線県道の突き当たりの山腹が良いとの結論に達した。
その後、 話は進展しないまま時代は移り、 太平洋戦争となり、 敗戦の混乱の世が続いて、ようやく社会情勢が治まってきた昭和三十年 (一九五五) に至り、 三斤会 (当時生き残りは山崎、山手、久保田、谷ロ、松田の五人) において話が再燃、 たまたま山手は教師をやめて町議となり、活動開始となった。
すなわち町・議会・御幸地区・篤志家等に働き掛けて、 昭和三十年に公園設立会 (会長平川唯雄ほか会員二〇人)を組織して、城ヶ鼻公園設立新計画を作って実施に踏み切った。
新計画は憩の場としての公園と、信仰の場としての神社を結ぴ付けて建設するというのが構想であった。

経過

公園は井上城の出城跡の突端 (城ヶ鼻) を含めて敷地一万坪を確保し、神社は稲荷神社 (五穀神) を公園の中央に建設することにし、昭和三十年着工、地主、地元の理解、 篤志家の後援、御幸地区民諸団体の奉仕作業により、 工事は一気に運んだ。
同三十二年十月には敷地、道路、社殿が完備し、十二月六日、 田中紋太町長・平川利夫議長・平川唯雄委員長・田中早苗神官が月八日、 浮羽の新社殿に奉祀した。
昭和三十三年、 宗教法人認可。

〈附記〉 三斤会
大正六年(一九一七) 四月に作った放談懇親の会で、 矢野房太・山崎善賢・松田資之・石野雄岳・久保田利八・東徳次・山手三朗の七人と、 大正十三年 (一九二四) に入会した谷口二雄が会員で、 毎月一回集合して、 村政・学校・社会・産業・」各種奉仕等の諸問題について懇談意見を交わし、会場は会員の宅まわしとし、肉三斤、酒一升を会から提供、 夕飯は当番会員負担、 会費毎月五〇銭ずつであった。

境内

城ヶ鼻公園兼境内は、 耳納山脈の最東端の山腹を占めて眺望優れ、 数百本の桜・ツツジが点在し、社頭に俳句愛好者寄進の玉垣句碑、100基が並び建つ。 (平成二十四年の大水害で一部崩落)